民俗学者宮本常一は、柳田國男や折口信夫のような直観力や構想力はなかったが、地道に脚で山村や漁村を訪ね歩き、その地方独自の生活習慣を肌身で感じつつ、活き活きとした報告を記した。調査というより何処にでもいそうなオジさんの一人旅の記録のようで、その光景を想像するに退職した人情刑事のイメージが浮かんでくる。
「忘れられた日本人」という著作があり、その中で失われつつある独自の食文化を紹介した章がある。とりわけ私の好奇心をそそったのは、東北のある漁村で食されていたタラ飯である。タラというのはあの白身のタラコ(真子)の親であるが、普通はタラ飯といわれれば、タラの身が入った炊き込みご飯のことかと思う。ところが、タラ飯には米は入っていない。タラの白い身を白い飯のようにするのである。獲れたての新鮮なタラを蒸して、皮や骨を丁寧に取り除き、身を細かくほぐし、水分を飛ばし、茶碗に飯のように盛り付けるのである。味付けは一切なし。タラに含まれた塩けだけで充分なのである。新鮮なタラを使えば、生臭みはなく、魚であることを忘れるという。まだ、流通が発達していなかった頃、漁村では米が貴重であった。そのことを合わせて考えると、タラ飯が作られた事情も想像するに難くない。米は腹いっぱい食べられないが、タラならいくらでも食べられる、そんな漁村のヴァーチャルご飯がタラ飯なのだ。
その昔、タラはいくらでも獲れたというが、近頃は切り身でしかお目にかかる機会がない高級魚になった。真ダラ丸ごと一匹売っている魚屋を東京で探すのはかなり難しい。従って、今日までそのタラ飯を食べる機会は持てずにいる。
タラといえば、ポルトガル料理にバカリャウというのがあり、これは干ダラを戻して、生クリームで和え、それをコロッケにした物だが、ほぐされた身は一瞬、米かなと勘違いする。
絵=さかなクン
島田雅彦
◎作家。1961年生まれ。大学時代に書いた「優しいサヨクのための嬉遊曲」にてデビュー(1983)。文筆活動のみならず、映画、演劇、音楽にかかわる創作表現活動も多い。
さかなクン
◎テレビ東京『TVチャンピオン』全国魚通選手権5連覇達成
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